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Thinking note: 僕がボーカロイド・オペラ「THE END」を観に行かなかった理由
例えるなら、様々な村に愛されていた初音ミクという姫が、全く関わりのなかった王政の国に連れて行かれ、誰も買えないような高価なドレスを着せられ、豪華な式場で王と結婚式を挙げさせられる。それに対して王国民は「初音ミクと結婚する王様はやっぱり凄い!今までで見た結婚式で一番だ!」と騒ぎ、周りの国々の人は国交関係上で口を揃えて「凄い式場でしたね」と誉め称えているように思えた。
あとTwitterなどで何度か見かけた「ミクファンと思われる人たちが、理解出来ずかポカンとして帰ってったww」みたいな観た人のツイートも本当に気持ち悪かった。「田舎者にはこれを理解する感性はないだろう」という区切り方をしているようで。こういうこれまでの文脈のファンをバカにする人は一体何様のつもりなんだろうか。まるで「裸の王様」みたいな話だ。
自分はヲタクなので、これをヲタクの文脈としてみた場合、この人の気持ちは凄くよく分かる。
だが、初音ミクをシンセサイザーという楽器としての文脈で見た場合、かつてのアナログシンセのモーグ奏者としての冨田勲、さらにFM音源シンセのシンクラヴィア奏者としての小室哲哉、そして今回のボカロ音源シンセ・初音ミクを挑戦/演奏するのは、エレクトロニカ・電子音楽の第一人者としての渋谷慶一郎ときくおと並んでカルトな人気を誇るボカロPのピノキオPであり、この世界の文脈と歴史は結構1本の線で繋がってる。むしろ、楽器としてのミクさんの前では、どんな有名で実績のある奏者であっても同じボカロ音楽として、同じ評価軸に立たされる。それは、自分にとっては結構痛快なことなんだけどな。
んで、今回余計だったのは、ルイ・ヴィトンとのコラボが連れてきた初音ミクの文脈を理解していないおしゃんてぃな方々じゃないのか? ただ、それさえもキャズムを超えるには必要な人達であって、彼ら彼女らの反応も初音ミク現象のひとつになっていくんだろう。